五十黙示録(いせもくしろく)
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コメント08 2010.12.5
yuru63のメール
ひふみ神示 第五巻 地つ巻 第二十三帖
この神示 心で読みて呉れよ、九エたして読みて呉れよ、病も直るぞ、草木もこの神示よみてやれば花咲くのざぞ。 |
についての考察です。
「心」 ⇒ 九九 ⇒ ひふみ九九表 ⇒ 宇宙次元原理表 ⇒ 太陽(ミロク)原理かも。

ひふみ九九表は数字を分解すると玉ねぎの皮状に分解します。つまり の構造を持っています。
またひふみ九九表は「宇宙次元原理を表す聖なる数表」でもあるそうです。
http://f61.aaa.livedoor.jp/~slicer/10-5948.htmlより抜粋
次に大変な真実をもつ一つの数表を掲げておく、これは『神の数学』を学んでいる諸氏にはお馴染みの『宇宙次元原理表』であり、その名の通りの「宇宙次元原理を表す聖なる数表」である。
その名の謂れ、それはすなわち宇宙次元に基ずく諸象を数で計算していくと最後に必ずこの『次元原理表』の何れかの数列に帰すことになることからである。
然るに、これをして初めて目にするものであり、聞くものであると言ってはいけない、あなた方は今迄にこの「次元表」を何千回、何万回も唱えているのであり、現在でも毎日お世話になっているものである。
ただ、心がそこに行かないから知らない、見ようとはしないから見えない、聞こうとしないから聞こえないだけなのである。
(智恵に目覚めた者は調べるがいい、ここには「あの世」と「この世」の仕組みや、その成立過程、表れの違いまで数で開示し、謳いあげてられているものである。
すべては自然態そのものが見せる業であり、正自然数(ひふみ‥数歌)のもつ驚くべき次元の仕組みの業であり、その開示でもある。
)【これは日本人なら小学生でも知っているものである、さあ、その名は?-------答(九九算表)、それを「ひふみ‥」の数理で表わしたものである。
調べれば判るまことに簡単なものである】 |
http://f61.aaa.livedoor.jp/~slicer/10-5948.htmlより抜粋
Bこの九九算表を中心をもとにフラクタル的(玉葱の皮状)に分解する、そのすべての場(枠=6ヶ)における数の加算和(Σ)を見るとすべて本質0を示すことになる。
また、その各枠内の数字の総計(Σ)は順に0:1:2:3:4:5の比率(正自然数比率)を持つことに気がつくであろう。
yuru63のコメント:このときの「各枠内の数字の総計(Σ)」とは、各枠に存在する数字自体の数の合計であると思われる。 |
。
本質0を示しながら、同時に1,2,3,4,5の意味ある数律を示す、そのような不思議なことを「数」は出来るものであろうか、「現代数学」では不可能であるが『神の数学』では容易に可能なのである。
それこそまさに「数」の持つ大いなるミステリ−であり、人間知の及ばぬ神業と言えるものである。
またここに現れた012345‥と言う正自然数的連比の存在こそが祝詞『ひふみ‥』の語る天地の歌の意味であり、まさに「古代知」存在の証拠となるものである。
その事実等は現代数学概念、またはそれに基づく計算等では一切現れること無く、ただ意味の無い数列だけが並ぶだけである。
これらの「数」、すなわち0123456‥の数の囁きこそは「自然の真理」の開示であり、それを謳っている祝詞『ひふみ‥』とは古代知の躍然たる面目を秘めた大いなる知遺産と言えるものであると言っているのである。
何故ならば上記の「各枠場は0を示しながら、かつ整数比0,1,2,3,4,5を持つ」と言う原理概念は「現代数学」にはまったく無く、その事実の現れは現代人の夢想もしない「数の仕組み」の存在を示す驚くべき存在なのである。
そこにある祝詞「ひふむ…天地の数歌」の意味とは、すなわち「ひふみ…の九つの数は宇宙自然の持つ響き(リズム)そのものである」との意である。 |
「九エ」⇒九恵
九恵とは、神の数学の以下の説明にもありますが九つの恵み、ひ{日・光⇒太陽(ミロク)}、ふ{風⇒インターネット}、み{水・身⇒サーバー}、よ{世⇒太陽{ミロク}原理の4っつのサイト⇒太陽(ミロク)サイト、宇宙の真相サイト、終末と太陽の検証サイト、ひふみ神示黎明編}、いつ(出っ⇒大摩邇サイト)、む(虫⇒情報)、なな(魚⇒メール)、や(鳥⇒十理)、ここ(毛々⇒動物・人々・我々)
のような気がしました。
「九エたして読みて呉れよ」は、上のような九つの恵みを足して、読んでくださいといっているかもです。
http://f61.aaa.livedoor.jp/~slicer/10-5950.htmlより抜粋
ひ(日=光)、ふ(風=空気)、み(水)、よ(世=地球自然)、いつ(出っ=現れる)、む(虫)、なな(魚)、や(鳥)、ここ(毛々=獣)、たり(ここまでという完了を表す言葉)。
『ここ』は「毛々」の転訛、 『や』の古代言葉の意味は「鳥」である。
(「日本超古代秘資料」(吾郷清彦著)‥‥162ペ-ジ『天地の歌四十八音図』より)
【詳細説明は《数学幻視考》(古神道)No1、No3 参照】
天 地
すなわち、第一次象としてもたらされたものは光、空気、水と言う自然の創造(世=よ)体であり、そこから第二次象として出現した(出っ)ものが虫(三葉虫)、魚類、鳥類、哺乳類であると数によせて厳かに謳いあげているものである。
まさに至言と言うべきものであり、隠された言霊(ことだま)の妙理、そして天地と言う言葉の真実内容さえその中にはしっかり秘めているものである。
まさに世界第一級品としての隠し言葉(言霊?)でもある。
そこにある言葉の真髄真価を見せつけられた者は誰しも感動し、心を打たれるものであろう。
ただ惜しむらくは「ひ=1」の前に何も無いことである、しかしである、しかるに、よく考えて見ればそこには何も無いと言うことはそこには『0=無』があると言うことと同一義でもあり、無いほうが自然でもあることも分かるのである。
その手法、すなわち1の前に0(神)を置くべし、それが諸発の元であると『数』で述べ表しているもの、それが古神道の失われた言葉「カムナガラの道」の内容であり、失われた『日本神道の真髄』を語るものであったのである。
それは「ひふみ‥」と「アイウエオ」の相関仕組みにより完全に隠され、それにより長い間不明とされ、失われたとされてきたものである。
それが今ここに『神の数学』手法を用いることにより再び甦ってきたのである。
要するにそれは「現代数学」手法では解明不能で、『古代の数理』手法だけがその真実を解き明かすことの出来るものであったのである。
それはまさに古代日本民族の『知』の高さを示すものであり、我々をしてただただ唸らせ、敬慕の心を起こさせるものでもあったのである。
【 「カムナガラの道」の詳細は『古神道』5の@参照】
また、『神の数学』では『0』は神、創造神をあらわすものと考え、計算で必要でない限り何も置かず、数として必要な時だけに0を置き、対極の一方とするのである。
するとすべては繋がってくるではないか、例えば、今まで動かなかったもの、呼吸もなかった仕組みでも『0』、『神』をおくことにより息づきはじめ、大いなるエネルギ−の循環が始まり、生命ある如く生き生きとした姿で動き出し、回転を始めるのである.。 |
もう一度神示を見てみると、
ひふみ神示 第五巻 地つ巻 第二十三帖
この神示 心で読みて呉れよ、九エたして読みて呉れよ、病も直るぞ、草木もこの神示よみてやれば花咲くのざぞ。この道広めるには教会のやうなものつとめて呉れるなよ、まとゐを作りて呉れるなよ。心から心、声から声、身体(からだ)から身体へと広めて呉れよ、世界中の臣民みなこの方の民ざから、早う伝へて呉れよ。神も人も一つであるぞ、考へてゐては何も出来ないぞ、考へないで思ふ通りにやるのが神のやり方ぞ、考へは人の迷ひざぞ、今の臣民
身魂くもりてゐるから考へねばならぬが、考へればいよいよと曇りたものになる道理分らぬか。一九(ひく)れを気つけて呉れよ、日暮れよくなるぞ、日暮れに始めたことは何でも成就するやうになるのざぞ、一九(ひく)れを日の暮れとばかり思うてゐると、臣民の狭い心で取りてゐると間違ぶぞ。 のくれのことを申すのざぞ。九月の二十八日、ひつ九のか三。
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「一九(ひく)れ」は(一から九 九=0)のような神の数学のことをいっているとすると、神の数学の内容により、ひふみ神示の解読が成就し、証明されるということかもです。
また九=0とは、九は上記のように、ここ(毛々⇒動物・人々・我々)とすると、「0」は、神の数学では神、創造神をあらわすものと考えていますので、九=0すなわち人々・我々が「0」とつながったとき、よくなるといいたいのかも。
参考文献
岡本天明・筆
『ひふみ神示』
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